これは、美術院開設のころ、天心が仲間の団結を象徴するものに、王子の料亭で即興的に作った歌を後に大観が書いたものである。現在は日本美術院院歌となっている。この幅は縮小して複製したものである。 「谷中鶯、初音の血に染む紅梅花、堂々男子は死んでもよい。奇骨侠骨、開落栄枯は何のその、堂々男子は死んでもよい。」鶯と紅梅が絵になっているのが珍しく、おもしろい。大観の書は日本画家特有の筆使いで大らかである。
下村観山は、大正11年再興第9回院展が日本美術院創立25年にあたる記念展覧会であることにちなみ、「天心先生」を出品し、非常な好評を博した。この絵は翌年の関東大震災に惜しくも焼失した。画稿は観山からラングドン・ウォーナーに贈られていたが、本画焼失の後、ウォーナーから東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)に寄贈された。 画稿は天心が道服を着て机に向かい、手紙の筆をとっている半身像である。巻たばこを挿んだ手をはじめ、天心の習癖を活写している。また手紙の部分は、天心の真蹟を貼りつけてあるが、この複製は、画稿の下部が省かれている。
ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)は、1861年カルカッタの名家に生まれ、8歳の頃より詩作を始め、数多くの詩・戯曲・小説をベンガル語で著した、近代インド文化の代表的人物である。詩集「ギータンジャリ」は代表作である。1913年ノーベル文学賞を受賞し、14年には英国王室からナイトに叙されたが、17年アムリッツァル虐殺事件に抗議して返上した。各国を歴訪して講演し、インド思想の紹介に努め、世界平和と国際協力を訴えた。1941年没。 天心は、明治35年カルカッタでタゴールと知己になった。天心没後の大正6年、タゴールは五浦を訪れ、亡友を偲んだ。
ラングドン・ウォーナー(langdon Warner)は、一八八一年生まれ、ハーバード大学考古学科卒業後ボストン美術館に入り、明治三十九年(一九〇六年)七月、日本古美術研究のため来日、岡倉天心の指導を受けた。五浦の天心邸に滞在し、また奈良の新納忠之介宅に寄寓して、日本古美術の研究にあたった。帰国後は、クリーブランド美術館、ペンシルバニア美術館に勤務し、ハーバード大学附属フォッグ美術館東洋部長となった。「不滅の日本芸術」「推古彫刻の研究」などを著した。また第二次大戦中、日本文化財リスト(いわゆるウォーナー・リスト)を軍に提出して、その結果、奈良・京都の文化財が戦火を免れることに寄与した。
明治元年9月茨城県水戸市に生まれる。本名秀麿。 明治22年(1889)、東京美術学校開学と同時に入学、橋本雅邦に師事する。同30年、東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動に際しては辞職組の最先鋒の一人として春草とともに同校を免職となり、天心にしたがって日本美術院創立に参加した。線を抑えて空気を光の描写 を試みた彼の作品は、当時「朦朧体」と非難されたが、日本近代化の斬新な実験をして次代へ受け継がれた。明治39年日本美術院の五浦移転にしたがい五浦で『流燈』などを発表した。天心の没後は日本美術院を再興し、経営者兼同人となって活躍、『夜桜』などの傑作を生みだした。 帝室技芸員、帝国美術院会員となり、朝日文化賞、第1回文化勲章を受け、昭和33年没した。代表作『生々流転』は重要文化財に指定されている。
岡倉基子(別名、もと、元子、重戸、重藤子)は、大岡定雄の娘として慶応三年に生まれ、明治十二年、岡倉天心と結婚した。明治十四年に長男一雄を、十七年に長女こま(高麗子。のちに米山辰夫と結婚)を生んだ。天心に従って五浦に移住し、大正十三年五浦で没した。
岡倉天心は文久二年横浜に生まれ、幼名を角蔵、のちに覚三と改めた。 東京大学卒業後文部省に入り、京阪地方の古社寺調査に当たったが、明治22年開校した東京美術学校の校長を務め、また博物館にも勤務した。 明治三十一年東京美術学校を退き、日本美術院を創立した。欧州、中国、インドを視察し、明治37年渡米してボストン博物館に勤務、顧問、中国日本部長として、同館東洋美術の充実に尽くした。また英文著書「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」などを著し、海外に日本文化を紹介した。 明治36年五浦に土地を求めて移住し、39年には日本美術院を五浦に移した。 大正二年九月、新潟県赤倉で没した。
天心は幼い頃から英語塾に通い、生涯英語を母国語同然に使った。東京大学在学中に教師フェノロサの通訳をつとめ、卒業後も文部省に入り音楽取調掛として御雇い外国人の通訳をつとめた。しかし、天心は大学の卒業論文「国家論」を妻とのいさかいから破棄され一週間で「美術論」を書き上げたというように、早くから美術に興味を持ちフェノロサ、九鬼隆一と古社寺の文化財調査を重ねるうちに、美術行政の先頭を走るようになっていった。国際的な視野を持ち、日本の文化財に深い理解を示す近代美術史上まれにみるオピニヨン・リーダーが誕生したのである。 明治37年渡米してボストン美術館の仕事に携わり、日本、中国、インドの美術作品購入と整理保存に力を尽くした。顧問また中国日本美術部長となり、中国日本美術部の中にインドの部門を加える必要を説いた。
岡倉由三郎(よしさぶろう/号呉岸)は明治元年天心の弟として生まれた。東京文科大学中退、明治24年、朝鮮で日本語学校創立。30年、東京高等師範学校教授、ラジオ放送の英語担当など、英語教育の先達である。 昭和11年没した。 寄贈者のドロシー・ブレイア(Dorothy Blair)は、天心が明治19年の欧州視察旅行中に知り合い、37年の渡米後再会して交友を深めたギルダー(Richard Watson Gilder,センチュリー・マガジン編集長)の娘ドロシーであろう。
下村観山(本名晴三郎)は、明治6年和歌山市に生まれた。 狩野芳崖、橋本雅邦に師事し、東京美術学校卒業後直ちに母校助教授となった。岡倉天心に殉じて美術学校を辞職し、日本美術院創立には正員として参加、新日本画の創造に尽くした。英国に留学して水彩画の研究を行い、日本画古典の各派の研究とあわせ、高雅な作風を示した。東京美術学校に教授として戻り、また日本美術院の再興にも尽力した。帝室技芸員となった。 代表作には「木の間の秋」「大原御幸」「弱法師」(重要文化財)などがある。昭和5年没。
明治元年鹿児島県生まれ。天心に殉じて東京美術学校を辞職し、日本美術院創立に当たり、正員として参加。美術学校在職中から仏像修理を手がけ、日本美術院発足後は、奈良に居を構えて、古社寺保存法による仏像修理に携わった。天心没後、修理事業を日本美術院と切り離して美術院と改名、その院長となり、昭和12年引退するまで、監督修理した国宝・重要文化財は2,631点に及んでいる。昭和29年87才で没。 写真は、修理の功績により東大寺から贈られた南部袈裟をつけた姿である。
岡倉天心が明治三十一年に創立した日本美術院は、新日本画の創造を目指して、活発な運動を展開したがやがて経営不振に陥り、三十七年頃には活動も低調化した。天心は三十六年に土地を求め、家屋も建てていた五浦に、日本美術院を移すことを決め、三十九年末には、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山が家族を連れて移り住んだ。 写真は三十五畳敷の作画室に、奥から観山、大観、春草、武山の四人が並んで絵を書いている場面である。
明治7年9月長野県飯田市生まれ。本名三男治。 東京美術学校第1回卒業ののち母校の教員となったが、天心と共に辞職し、日本美術院創立時には大観、観山等と共に正員として参加した。大観と共に没線描法を試み、世間からは「朦朧体」と酷評されたが、敢然として新日本画の創造に邁進した。 大観と共にインド、アメリカ、ヨーロッパなどを巡遊し、第1回、第3回文展で二等賞、第4回文展で審査員となるなど活躍したが、明治41年病のため帰京、同44年38歳の若さで没した。 代表作『落葉』『黒き猫』は重要文化財に指定されている。
明治9年7月茨城県笠間市に生まれる。本名信太郎。 明治23年(1890)上京し、開成中学に入学、同時に川端玉章に師事する。同24年東京美術学校に入学。同29年卒業後は岡倉天心が率いる日本絵画協会に参加した。明治39年日本美術院の五浦移転に際し、下村観山の勧めで大観、草春等と行動をともにする。同40年第一回文展の『阿房劫火』、同43年第四回文展の『孔雀王』でともに三等賞となった。大正3年(1914)の日本美術院再興以降は同人として参加し、再興第一回展には『小春』を出品した。 その画風は特に色彩 感覚にすぐれ、写実的な描写力と古典を学んだ素養を生かして、大正初年頃までは歴史画に、その後は花鳥画に見るべきものが多い。晩年は仏画を多く描いて高野山金剛峰寺金堂壁画等も担当している。昭和17年11月没。
1904年(明治37年)、ニューヨークで出版された。(The Awakening of Japan,New York,The Century Co,1904,223P.) 天心の英文著作三部作の第2にあたる。1901(明治34)年暮から翌02(同35)年10月にかけてのインド滞在中にまとめ、草稿のままに終わった『東洋の覚醒』(The Awakening of the East,昭和15年聖文閣が初公刊、浅見晃解説)に続いて、折から日露戦争開始直前にあたる日本国内の反露感情の高まりについて、初の渡米中(明治37-38年)の体験をふまえて書かれている。鎖国時代の日本に根づいた「島国根性」などについて鋭い自省的な提議をしており、アメリカでの反響はきわめて大きかった。日本での完訳は、村岡博訳の岩波文庫本で、昭和15(1940)年刊である。
外国人の日本文化理解の浅薄さを憤慨した天心が、「茶」を例にとってその文化的、思想的根底を論じたもので、天心の代表的著作であり、英文著書の第3作である。全7章から成り、道教と禅の境地を強く滲ませた筆致は、彼自身の当時の状況をも反映していると思われる。米人画家で来日したこともあるラファージ(John La Farge)に献呈された。 発行の年にニューヨーク、シカゴ、ロンドン等の雑誌に書評が出て紹介されている。邦訳は大正11年9月の『天心先生欧文著書抄訳』(福原麟太郎訳)が最初であり、さらに昭和4年、村岡博訳の岩波文庫本で広く読まれるようになった。独、仏、瑞、西、中国語などにも翻訳されている。 本所で所蔵するものは、初版の原著の他、スペイン語訳、ドイツ語訳、エスペラント語訳がある。
わが国最古刊の学術的美術雑誌である。明治22年(1889年)に岡倉天心、高橋健三らの提唱によって発刊。世界的にも1859年発刊の『ガゼット・デ・ボザール』(『Gazette des Beaux-Arts』フランス)に次いで、現在まで継続する雑誌としては2番目の古さを誇る。『国華』の題名は、天心執筆とされる発刊の辞にある「夫レ美術ハ国の精華ナリ」という国家主義的な美術観に由来するが、明治22年という年が、帝国博物館(東京)の設置によって近代国家として古美術財の保護が緒についた年であることを考えれば、その辺の事情も理解されよう。 日本の代表的な東洋美術史家を歴代の編集主幹として、美術・工芸に関する精選された学術論文、作品解説、複製図版を掲載し、現在も内外の学会で最高の権威をもつ雑誌と認められている。
東京美術学校教授であった日本画家、川端玉章の著した図画教科書。岡倉覚三賛助とある。ただ、岡倉がどの程度関与したかは明らかでない。別な著者の図画教科書で岡倉覚三校閲となっているものもあるが、この教科書で賛助としているのは著者が東京美術学校教授であったためと思われる。 玉章には他にも約10種の図画教科書の著述がある。いずれも早い筆致の付立て風の絵で、玉章の特徴が出ている。毛筆画教科書は明治21年頃から現れ、30年代まで多数出版される。この教科書は毛筆画教科書全体としても、川端著の教科書としても中期に属する。 川端玉章は京都に生まれ、後に江戸に出て日本画家として名をなす。明治23年東京美術学校教授となり、29年には帝室技芸員に任ぜられる。明治42年、川端画学校を設立したことでも知られる。
この詩は、日本美術院の機関誌『日本美術』79号(明治38年8月)に掲載された。この幅は絹本に複製されたもので、天心特有の奔放な書きぶりである。 大観夫人から寄贈されたもので、次の箱書きがある。「岡倉天心先生自筆五浦即時 昭和三十七年五月贈茨城大学 横山静子記」