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五浦海岸の魅力

なぜ岡倉天心は、ここ五浦に、六角堂を建てたのか。

五浦海岸の六角堂

ごつごつとした岩がそびえる五浦の、崖の上の赤い小さな建物。岡倉天心の六角堂です。それは松のかげにひっそりとたたずむようにも、太平洋に向かって誇り高くおのれを主張するようにも映ります。なぜ天心はここ五浦に移り住み、この不思議なものを作ったのでしょうか。

ここから「アジア」を発信する

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岡倉天心はその生涯の前半において日本文化の近代化に努め、華々しく活躍しました。いっぽう、生涯の後半においては、これまでの自身の仕事を支えてきた枠組みそのものに向かい、西洋を追いかけるばかりの近代化の動きに疑問を投げかけます。天心は、アジアには西洋と異なる文化の原理があると考えたのです。すでに近代化著しかった東京を離れ、移り住んだ自然豊かな五浦は、天心の人生における第二のスタートラインであり、新たな思想の発信地でした。そして、アジア文化を集約した六角堂は、大胆にも近代を乗り越えようとした天心の決意表明だったのです。

沿革

この地のこれまでの歩み

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新天地を求めた天心が、五浦に出会ったのは明治三十六(一九〇三)年、天心四十歳の頃のこと。明治三十八年にはみずからの設計により邸宅と六角堂を建築し、翌年には、横山大観らを呼び寄せます。国内外において精力的に活動しながら、天心は終生この地を拠点としました。昭和十七年、天心偉績顕彰会が遺族より当地の管理を引き継いだのち、昭和三十年に茨城大学に寄贈されたのを受けて、同年、五浦美術研究所(後に五浦美術文化研究所と改称)が設立され、現在へと続いています。

五浦海岸のみどころ

「亜細亜ハ一なり」石碑

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「アジア」を支える多様性
「ASIA is one」 天心がインドで書いた『東洋の理想』冒頭の一文です。インド、中国、日本など、それぞれ異なる個性を持つ国々が、目に見えない「アジア」というひとつの概念を支えていることを示したものです。西洋文化に対抗しうる東洋文化への思いが込められています。石碑は昭和十七年、細川家当主・細川護立、横山大観、資生堂社長・福原信三ら天心偉績顕彰会のメンバーによって建立されました。太平洋戦争時に海外侵略を正当化するフレーズとして捉えられたことは残念な誤解といえるでしょう。

天心邸-登録有形文化財-

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妙味をたたえる和の静謐
この地に移り住んだ天心は、当初、古い料亭(観浦楼)を住まいとしていました。天心邸はその料亭の古材を用いて建築されたと伝えられています。古民家に見られるような重厚なものではなく、意外にも粗末な木材が瀟洒に再利用されているのです。また、和風の母屋に対し、前庭はボストンから取り寄せた芝生が植えられた洋風の造りであったといわれています。さまざまな点で取り合わせの妙が光る、天心らしい邸宅と言えるのかもしれません。
観浦楼 明治十七年頃、地元の実業家柴田稲作が建設した建物。天心が五浦を訪れたときにはすでに荒廃し、放置されていたという。

六角堂

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多様な文化をひとつの建物に
太平洋に臨む岸壁の上に立つ、天心遺跡のシンボル。この建築には三つの意図が込められているといわれています。まず、杜甫の草堂である六角亭子の構造。つぎに、朱塗りの外壁と屋根の上の如意宝珠は仏堂の装い。そして内部に床の間と炉を備えた茶室としての役割。つまり六角堂には、中国、インド、日本といったアジアの伝統思想が、ひとつの建物全体で表現されているのです。東日本大震災の津波により流失、国の復旧予算に加え、多くの方々の寄付金によって、一年後の平成二十四年に創建当初の姿で再建されました。

ウォーナー像

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天心に師事したアメリカ人
ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で天心の薫陶を受け日本美術を研究します。第二次世界大戦中、爆撃対象から奈良、京都などの日本の都市を外す文化財リストをアメリカ政府に提出したとされています。その功績を称えようと日立製作所から胸像建設の計画が起こり、各方面からの寄付によって、昭和四十五年三月ウォーナー博士功績顕彰会が建立しました。肖像は平櫛田中が制作、美術史家矢代幸雄が台座の賛文を草しました。覆堂は、天心ゆかりの日本の文化財の象徴として、法隆寺夢殿を模して設計されています。

長屋門-登録有形文化財-

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百年の時を経て、面影を伝える
この地を訪れた人々を、風情ある佇まいで出迎えてくれる長屋門。杉皮葺きを竹で押さえたひなびた造りの屋根が、百年あまり前の五浦の面影を伝えています。現在、長屋門は遺跡の管理室・受付として使用されており、天心が住んでいた当時と同じ役割を果たしています。平成十五年には、歴史的景観として登録有形文化財に認定されました。使いながら保存するという登録有形文化財の主旨に合致した建築です。