印材としては田黄、鶏血、寿山、青田石など多くがあり、これは寿山石である。鈕(上部の彫刻)は獅子、亀、鳥、龍などいろいろあり、これは獅子である。
「剛」の一字が白文で刻られ、刀は力強く動いている。誰の印か不明である。
天心はアメリカ滞在中、和服で過ごすことが殆どであったという。この下駄もそのために携えて行ったもので、下駄の裏に残る商標から、小石川白山町の越後屋の製品であることが解る。歯裏の金具は失われているが、金具と歯の間に貼られていた和紙は残っている。
端渓荷葉硯(天心の日誌によれば蓮花硯で明時代の硯)で優品である。端渓硯は広東省広州の南100キロ余の高要県肇慶市を中心にして産出し、唐宋時代から採取された。日誌によれば、明治45年5月20日北京、尊古斎で購入したものである。墨道の左上に「拙庵心賞」と丸く刻字してあり珍しい。
天心がボストン美術館中国日本美術部長当時に着用した袴である。 腰板に松鶴マーク(現・松屋百貨店のシンボルマーク)の縫取がある。この松鶴マークは明治40年11月に東京の松屋呉服店と横浜の鶴屋呉服店の共通マークとして初めて作成使用されたものである。天心は同年11月16日に渡米しているので、以後逝去までの期間に着用されたものと思われる。
朱墨用の硯で、石質は不明であるが、和硯と思われる。一般的に朱墨用の硯はあまり吟味しないことが多い。
春草は眼病のため明治41年に五浦を離れ、明治44年には世を去る。この画材棚が春草の制作を見守ったのはわずか数年だったが、《落葉》や《黒き猫》など、近代日本画としていち早く重要文化財に指定される傑作の誕生に寄与している。大切に保管されていた遺品が、37歳で逝った春草を惜しむ遺族の思いを今に伝えている。
中国製である。天心は前後3回中国に渡っている。明治26年の際は、中国人を装っての視察旅行であるが、明治39-40年、明治45年には、ボストン美術館のために美術工芸品を購入している。おそらくその時に私用として買い求めたものであろう。
アーサー・マックレーン(J.ArtherMcLean)は、岡倉天心がボストン美術館在任の頃、中国日本美術部管理係助手をしていた。その関係で天心の遺品を所持していたものと思われる。
天心は明治12年頃、正阿弥という茶人に茶道を学んだという。また晩年の渡米に際しては、陸羽の茶経を携え、それを座右において『茶の本』(“The Book of Tea”1906)を書き、ニューヨークのフォックス・ダフィールド社から出版した。在米中知己となったガードナー夫人には、日本から茶の道具一式を送ったりもしている。 日露戦争後のことで、日本が好戦国と誤解される風潮もあった時期に、天心は日本人が茶や花を愛玩する美風を持つ、平和愛好の国民性であることを知らせようとしたものである。
胴の張り具合や肩の線に、天心にも似た気骨を感じさせる、大ぶりの潤塗り(黒漆に朱または紅柄を混合して、栗色の落ち着いた光沢を持つ塗り上げにしたもの。椀類に多く見られ、潤(うるみ)椀の称がある。)の椀である。蓋を開けると身付の部分には簡潔な線描を主にして金銀で蝶が蒔絵されている。蓋裏には牡丹の花がおおらかに蒔絵され、花びらの周りには金の毛打ちが施されている。
六角紫水(本名注太良)は、慶応3年広島県に生まれ、東京美術学校第1回卒業生である。美術学校騒動の時には、教授職を天心と共に辞し、日本美術院創立時には正員として参加した。国内各地の古美術を調査し、また朝鮮楽浪漆器の発掘研究を行い、彩漆の研究をして漆工の発展に寄与した。天心の推薦により、ボストン美術館所蔵の漆器の整理に携わったこともある。帝国美術院会員となり、昭和25年に没した。 この衣桁は、黒漆面に金銀の平蒔絵と高蒔絵で蝶があしらわれている。現在は銀が酸化して黒色を呈しているが、当時は金と銀のコントラストが華麗であったと思われる。上の棹には上着を、下の棹には袴をかけて使用したものである。
開校当初に定められた東京美術学校校服は、奈良朝の服装に倣ったもので、世間の注目をあつめた。生徒は入学後1ヶ月以内に、自費で校服を作って着用することを定められていたが、服装の形や色などについてはどのように規定があったのか判然としない。明治22年4月15日発行の「美術」第3号には「教員のハ茶色の綾毛織地に水色甲斐絹の裏を附け生徒ハ鉄色無地の毛織に水色の裏を附け帽子も無類異形の物なれば其圖を上に掲ぐ」とあり、生徒用の服の記述は、武山着用の服にほぼ符合している。図では腋下が全部開いているが、武山着用は裾から35センチまでが開いている。 この校服は明治30年からは儀式用となり、ふだんは、略式の襷をつけることとなった。
校服と同じく、東京美術学校の初期に着用された帽子である。帽子についての記述はくわしいのが見あたらないが、「美術」第3号の図では、後側のさがりが紐状に描かれている点が大きな相違点である。文様は細かい四ッ菱である。
岡倉覚三に対する文部省辞令。明治13年10月18日の御用掛・音楽取締掛勤務として就職する時の辞令から17年12月の月俸の辞令までの12枚。明治14年11月には前月から施行された文部省部局の1つである専門学校勤務となり、音楽取締掛は兼務となる。さらに15年4月はその兼務は免ぜられていることがわかる。これは音楽取締掛長の伊沢修二と合わなかったためとされている。文部少輔九鬼隆一の学事巡視に随行することを申付ける辞令が2枚ある。15年9月のものは新潟県、石川県、17年2月のものは長崎県、佐賀県への巡視随行であった。17年6月の辞令にある京阪出張はいわゆる古社寺調査のことである。この過程で法隆寺夢殿の救世観音を発見した。また16年10月の除服出仕は、当時よく出された喪が明けて出勤する時の辞令である。ただ、誰の喪が明けたのかは明らかでない。
釣好きの天心は、ボストン美術館の勤務の合間にも海釣りに出かけていた。そこでヨットの性能に強く魅かれた天心は、五浦で使っていた和船の改良を思い立ち、明治44年までには、ボストンの関係者と相談して龍王丸の10分の1の模型を製作していたらしい。大正元年夏、天心は平潟の「金大工」こと鈴木金次郎にその模型を預けて渡米。大正2年4月に帰国すると飛んで帰って出来具合いを確かめ、その日のうちに関係者数人を招いて慰労の宴を張り、翌朝にはスズキ釣に出かけたという。天心の愛息、一雄の記憶によれば、それまで愛用のかもめ丸と数キロ先の漁場から並走し、龍王丸は30分も早く五浦に到着したという。真鍮製だったというセンターボートは戦時中に供出されて形状は不明だが、舷側と船底は当初の部材が使われていて、和魂洋才の天心の思想を具体的に見せてくれる。