昭和32年(1957)第42回院展に出品、南風肖像画中傑作と評された『大観先生像』の下絵である。日本画家横山大観の上半身を簡潔な墨線で鋭く描写し、近代日本を代表する大家の晩年の風貌を彷彿とさせる。 堅山南風は明治20年(1887)熊本県生まれ。高橋広湖に師事、大正2年(1913)第7回文展に出品した『霜月頃』が大観に認められ、その後大観に認められ、その後大観に私淑した。大正3年日本美術院再興に参加、同13年に同人となる。昭和43年(1968)文化勲章を受賞。同55年没。
大観は、院展の中堅画家酒井三良に五浦の別荘を貸し与え、三良は昭和21年から29年まで五浦で暮らした。三良は、牛久の小川芋銭の誘いで院展に参加し、その影響から田園風俗を水墨で飄々と描き出し、独自の境地を確立していた。会津を拠点としていた三良は、五浦での生活によって海を描き始めたといえる。
華やかな色彩と技術を競う若手の画家が増えつつあった院展の中で、異色ともいえた「文人」芋銭は昭和13年に没している。清貧な文人画風は、院展では弟子の三良だけだったのだ。じつは大観の作品にも早くから稚拙な雰囲気があって、終戦直後には、戦時中の神がかったような富士や桜のテーマから離れ、五浦での初心を確認するように素朴な《漁夫》などという作品を描いている。三良が、巨匠と称される大観と響きあった古拙の趣が、この作品にもある。
この作品の水墨と金泥の使い方を見ると、彼が風景の本質を光に感じる繊細な画家であったことが分かる。月の光に照らされて白く浮かび上がる花影と、螢の小さいが強い光との対比に目をつけた武山のデリケートな感性の賜物である。金泥による鋭い葉影と、宗達流のたらし込みによる水墨の柔らかな葉影が、晩夏と初秋、夕暮れと夜の入り交じる複雑な季節と時刻を感じさせる。逝く夏の螢の光と足だけを見せる秋の虫の音も対比的に表すなどの工夫も細かい。小品ながら武山の力量を示す佳作と言えるだろう。
横長の大画面に秋の草木を描く。右隻の中央にたわわに実をつけた柿の木を配し、枝は上半と左隻の右半(向かって)までに及ぶ。根もと付近に向日葵と葉鶏頭が描かれ、小鳥が一羽餌をついばんでいる。左隻は右半に篠竹十数本、中央下半から左にかけては葉鶏頭と栗が描かれ、柿の枝先に小鳥を止まらしている。本紙(絹地)は裏に金箔を押して画面全体を薄い金色地として、下地を施さずに草木等を比較的薄く顔料を用いて描く。全体に暖色系統の印象を示し、ことに薄金色の空間部分が効果的で、いかにも秋の小春日和の雰囲気を漂わせている。この作品は、大正3年に日本橋三越で開催された再興美術院第1回展覧会に出品したもので、武山の代表作のひとつに挙げられている。
平山郁夫は広島県に生まれ、昭和27年東京美術学校卒業、前田青邨に師事した。28年院展初入選以来毎回出品を続け、36年第46回院展に「入涅槃幻想」を出品して、日本美術院賞、大観賞を受賞。以後受賞を重ねて39年同人に推挙された。現在院展評議員。この絵は、日本美術院の系譜を表したものである。創立当時の日本美術院の建物を背景に、中央に馬上の天心、その周囲を院展の同人が囲む。馬の手前右から、武山、大観、観山、春草、最前列右より、田中、青邨、靫彦、土牛、南風らが並んでいる。
奥本名池田節。天保8年、古河藩上級武士の娘として生まれた。牧田水石のもとで文晁派の作風を学び、28歳で江戸に出て文人画家として一家をなした。墨の階調を微妙に使い分けた新鮮な画風で、明治維新後の文人画界で名声を博し、女流ながら画家十傑の筆頭に挙げられたこともあった。明治5(1872)年には画塾春暢学舎を開き、多くの弟子で賑わったが、その一人に岡倉天心がいた。《梅花半開》が制作された前後の明治9(1876)年頃、14歳の岡倉が入門して絵を学んでいる。入門を願い出た岡倉に対し、はやりの洋風画を学んだらよかろうとアドバイスしたと伝えられている。晴湖は明治を代表する文人画家として木戸孝允や川上冬崖など一流の名士と交流があり、岡倉とは生涯にわたって漢詩を交換していた。大正2年76歳で没。
飛田周山(本名飛田正雄)は茨城県に生まれ、久保田米僊、竹内栖鳳、橋本雅邦に学んだ。健実な画風に特色を示し、文展、帝展等に出品し受賞を重ねた。大正9年の第2回帝展では展覧会委員、翌10年第3回帝展等に審査委員となった。日本美術院の研究会員であった周山は、郷里(現北茨城市磯原町)の関係から、明治36年、岡倉天心を福島県平地方、また五浦に案内し、これが日本美術院五浦移転の機縁となった。この絵は、金泥で観世音菩薩を描き、観音経普門品第25を書したもので、昭和十年歳次乙亥之正月八日飛田正雄沐手敬写と署名している。
岡倉天心の意を受けて国宝修理事業に当たった日本美術院第ニ部は、大正2年天心の死去によって、日本美術院から分離したが、現在も財団法人美術院として事業を続けている。美術院では9月2日を天心祭と定め、大正3年以来継続している。細谷三郎は、明治35年に東京美術学校塑造科を卒業し、美術院に入って塑像の修理を専門とした。法隆寺五十の塔内の塑像や、新薬師寺の十二神将などを修理した。この作品の同型のものが、美術院国宝修理所(京都国立博物館内)の作業場に安置され、天心祭の祭神となっている。
平櫛田中(倬太郎)は、岡山県井原市の田中家に生まれ、11歳で平櫛家に養子となった。中谷省古に彫刻の手ほどきを受け、のちに高村光雲に師事した。光雲門下の米原雲海、山崎朝雲らと日本彫刻会を結成して岡倉天心を会長に推した。文展、帝展等に出品し、大正3年の再興日本美術院発足に当たっては、同人として参加した。日本芸術院会員、文化功労賞、文化勲章受賞など栄誉に輝いた。昭和6年、東京美術学校校庭に岡倉天心のブロンズ像を作ったが、その上半身の石膏原型から鋳造したものが、この作品である。
明治41年、日本彫刻会に出品されたこの活人箭は、若手木彫家のホープだった田中が天心に認められるきっかけとなった作品である。もともと活人箭のオリジナルは現在の姿ではなく、天心が見た活人箭は、箭をつがえた弓を手にして構える姿だった。それを日本彫刻会展の最優秀と天心は認めるのだが、後日厳しい批判をする。「あの弓と箭はいりません。あんなものを附けてもじきに失ってしまいます。只これだけでよろしい」と袖をまくり、左手を突出し、射る姿をされ「すーっ」といって上半身と共に両手を左方に、矢が風を切って飛ぶ勢を示され、「これでよろしい。私フランスでロダンに会いました。偉いじいさんです。ロダンはこれをやって居ります。あんな姿では死んだ豕でも射れやしない」(平櫛田中「岡倉先生」平凡社所収)。
天心の文化財保護活動を語るときに、新納忠之介の名を欠かすことはできない。新納は天心とともに日本美術院創設に参加し、美術院第二部の責任者として国宝・仏像修復の分野で比類ない業績を残したが、修復を事業として軌道にのせるのは大変な努力を要した。特に1906年の美術院五浦移転の後は、奈良で独立採算の運営を余儀なくされた。新納らは、経営に資する目的で、有名寺院の仏像や正倉院の工芸品を複製して美術愛好家に販売していたが、実際には経費がかさんで失敗だったといわれている。これもその苦闘時代を偲ぶ販売品で、巫女の姿を郷土玩具風にユーモラスにアレンジしている。元本研究所員の大道氏が、新納の遺族を調査した折に譲り受けたゆかりの品である。
雲海(1869-1925)は島根県安来市に生まれ、大工として建築彫刻に従事した後、高村光雲に弟子入りし木彫家となった。明治40年、天心の肝いりで創設された日本彫刻会に参加、平櫛田中とともに主力メンバーとなった。この作品は大正4年の日本彫刻会で展示された後、同年の文部省美術展覧会に出品された。明治43年以降は文展の審査員をつとめていた雲海の充実した時期の制作であり、評価も高かった。テーマについては当時からあいまいだったようで、タイトルからは十六夜叉神の一人で、曠野聚落に住んで仏に教化されたという曠野鬼を現代化した可能性や、天心(大正2年没)亡き後の日本彫刻会のイメージなどと想像されるが、確証はない。