天心の根岸時代の文人たちとの交遊を伝える書状である。1行目「学校」とあるのは、いうまでもなく根岸移住の前年明治21年正月ごろから、開校のために奔走し、その年の12月に第1回生の募集をおこない、明けて22年1月にその入学式をおこなった東京美術学校である。5行目の新富行とは、新富座の芝居見物を意味すると思われる。7行目の「あへば」は饗庭篁村、「宮嵜」は宮崎三昧である。 『全集』がこれを明治23年1月とした根拠は必ずしも明らかでないが、23年1月は、天心は元日に京都・奈良の帝室博物館用地検分のため、新橋を発ち、1月8日に京都から東京に帰っている。


