天心は幼い頃から英語塾に通い、生涯英語を母国語同然に使った。東京大学在学中に教師フェノロサの通訳をつとめ、卒業後も文部省に入り音楽取調掛として御雇い外国人の通訳をつとめた。しかし、天心は大学の卒業論文「国家論」を妻とのいさかいから破棄され一週間で「美術論」を書き上げたというように、早くから美術に興味を持ちフェノロサ、九鬼隆一と古社寺の文化財調査を重ねるうちに、美術行政の先頭を走るようになっていった。国際的な視野を持ち、日本の文化財に深い理解を示す近代美術史上まれにみるオピニヨン・リーダーが誕生したのである。 明治37年渡米してボストン美術館の仕事に携わり、日本、中国、インドの美術作品購入と整理保存に力を尽くした。顧問また中国日本美術部長となり、中国日本美術部の中にインドの部門を加える必要を説いた。